今日は19時くらいまでゲームをしていた。学んだことがいくつかある。
・その日に覚えられることは限られている
・今持っている選択肢を有効に使うことで勝率は上がる
・今持っていない選択肢は無理に引き出せない、持っていない選択肢を選択すると有効に働かない。
・持っていない選択肢を習得するのには地道な練習と定期的な実践が必要
・相手のプレイをよく見て、対抗策を考える必要が有る
・ひとつひとつの動きに区切りを見出すべき。それぞれに対抗があり、自分には選択肢が与えられていたことを知るべき
・プレイそのもの、操作そのものに慣れていないことが敗因と感じるとき、想定する動きが出来ないことを受け入れて、現時点で行える内で想定できる理想的な動きも考えるべき。
・対面は人である。通る動きを繰り返す。持っている選択肢は有限である。動きに対する解答をすることで相手の選択肢を潰すことが出来る。
・解答を知っているが、体が間に合って動かない場合、次善の動きをしてもいい。持っていない選択肢を覚えておいて基礎練習に戻ると良い。
・上手くなる必要は無い
ゲームをしているといろいろな事を考える。負けると悔しくて仕方ない。もっとも苛立つのは想定した動きが実際に出来ないことだ。自分の内部で最高の動きが行えて負けるときは、疑問だけが残る。なぜ負けたのか?相手の動きはどうなっているのか。自分は何をしていたのか?リプレイを見直して全てを確認したい。いろいろな事が頭を巡るが、結果として表れるのは相手の有効な動きに翻弄され、蹂躙される結果だけだ。机やキーボードを叩く。情けない。
sf6を始めたのはきっと自分の中のタスク消化と暇を勘案した結果だろう。きっかけは最近は関わりの無かった格ゲー好きの友人とこの前LoLで遊んだことだ。疎遠な、といっても疎遠にしているのは、私の人間関係に不安症な態度からだからなのだが。
急な思い出だが、成人式に行くとふだんの友人は居なかった。そいつが居たが、コミュニティが違ったので挨拶だけをした。みんな友人内だけで行うと言っていた。私は居場所が無くて行く気がなく、実際に居場所はなかった。書くことが乱雑に拡散していく。
絵を描くんだった、何故か文章を書いている。文章を書くのはお茶を飲んだり、ご飯を食べたり、それくらいの動機にある。音楽を聞くのとは違う。何か書き表わして網羅するべきという指示が自分の中にあり、私はこれを行わなければならない。
絵を描くためにいくつか自分の中のもやもやをはっきりさせる必要が有るように感じる。それに都度悩んでいる。郁田はるきさんが、”わかります。ただ、そのもやもやと一緒に絵を描くのも、楽しいんじゃないでしょうか?”って脳内で言っていた。ちなみに郁田さんの”郁”の意味は以下で、意味が面白い。
なぜサジェストにうつ病が…?
香りってすごく文化的でファッショネイブルで、特定の人々にとってはすべての意味であるんだろうなと思える。香りはすぐに意味へ変換される。香りは快・不快にすぐ判断される。いいね!わるいね!最高、最悪、アゲ、サゲみたいなのって、珍しく社会で許されている至上主義的なワードに思える。何の話だ…?
早く絵を描かねば、尻込みしている。一寸先は闇か、絵を描くことって何をすることだ?はるきさんが私の右手を支えて一緒にキャンパスに筆を乗せる。ちょっとズルかもしれないですけど、これも楽しいですねってね。絵を描くことはいつも孤独に何かを見出すように、失われ続けている情報の中で何かを手繰るように表すことのように感じているが、それはむしろ、失われ続けている情報の中で何かを手繰りたくて、私は絵を描くのか。もしくは、失われ続けている情報の中にこそ自分が居ると思うのか。
微笑むはるきさんを描きたくてipadを開けたら、applepencilの充電が無かった。無念・・・。この間に晩御飯(朝ご飯)でもつくろうか。飯は生きるための時限爆弾みたいな、タワーディフェンスゲームにおける定期的に対処しないといけない敵みたいな、そういう嫌さがある。勿論、美味しいご飯をたべるのは楽しいが、それでも。可能ならONOFF式にしたい。今はどう絵を描くか、どのような過程で研究をするか、そういったことが主眼で、他のことに気を煩わされたくない。
洋館兼博物館みたいなところに行った時に、むかしの肖像画が書かれた空間みたいだねって椅子に座った。もう少しエネルギーと描き方の知識と資料集めが出来たらこういう絵もう少しまともに描けるだろうか光や陰に秩序を持ちたい