日常に居たいのに、物語が現れる

視聴済みのアニメを見るときの動機として、”そこの空間に自分が居るような感覚になるため”というのがある。”○○(任意のアニメ)を見ているときの心地になりたいな~”って感じで、視聴時の感覚を思い出して見たくなる感じ。

けど、そう思って見始めても思い通りには行かない。

私が見るようなものに関しては、アニメは1話冒頭で主人公の周りから始まり、

1,主人公がどのような問題を抱えているのか、
2,物語がどこに向かう話なのか

とかの、ざっくりとしたあらすじが示されるから、そういった目的や大義みたいなもののどうでもよさにフラストレーションが溜まってしまう。

さっさと”その日常に居る感”をくれ!っていう日常オタクヤクザみたいなテンションになる。記憶の中に合ったはずの空間の心地よさに連れられて視聴しているが、どの場面で自分はそれを感じていたかも忘れている。

そもそもその空間に居る感って、再生ボタンを押せば始まるものでもない。きっと舞台の描写、主人公の声、SE、BGM色んなものが丁度良く聞こえて見える状態で初めて感じれるものなんだろう。

近い話だと思ったことに、好きな音楽をリピートしまくって聞きまくっていると、無味乾燥…というよりも、音を聞いても快楽がないから、音が痛かったりすごくザラザラして聞こえたりするときがある。そういうときは聞かないのが一番予後が良い。1年くらい聞かずにいると、次聞いたとき、初見の(初聞きの)印象と違っていて、聞こえる部分が変わったりしていて良い。あと、間違って覚えていたメロディーに気づいたりする。実際とは違うメロディーで聞こえているのに好きだったんだなと思う。どうなんだろうか。

同じことがアニメでもある。キャラクターの声やキャラクターの境遇に深く共感できるときもあれば、何も感じなかったり、他人が悲しんでいたり喜んでいるな~ぐらいのテンションで見つめている時もある。そのアニメ(物語)に初見ではまっているときはもう食い入るように見つめていて、全てが新鮮で面白く感じるのに対して、2回目以降に知っている展開、どうでもいいキャラクターたち、聞きすぎて聞き心地の悪いOPEDに対してどのような態度でいればいいのか。書き並べていて悲しくなる。

自分が深く共感したキャラクターたちが居る一方で、ほとんど関心のないキャラクターたちもたくさん居る。好きになれたことが不思議だねって、好きなものに集中できれば良いが、そうじゃないとき、好きになれない悲しさに立ち尽くすのはすごく嫌なことだ。好きになるのはきっと心地よくて快楽がある。すごく傲慢な態度なのかもしれない。

よく、友達にはなっているもの、とか好きとはなっているもの、とかそういう言明があるが、よくわかる。よくわかるが、今楽しくなれないのはいやだ。っていうよくよく考えればすごく強引な楽しさの引き出し方をしようとしていたかもしれない。

日常には居たいと思ったりするものじゃないのかもしれない。居るものであって、居たと気付くようなものかもしれない。だから、物語や向かう先というのは、とりあえず用意して進んでいればいいのか。それもわからない。ここには何かしらの順序があるようにも思えるし、対象化して客観的に見るふりをしていてはいつまで経っても気づけない何かが有るような気もする。

ブログをとりあえず書こうと思ったのだが、幾分まだ自分の中で長く考えていないものをギリギリ間に合わせて文章にして待った気もする。少なくとも何かしらの着地点や新たな発見と共に文章を書き表したいと思うのだが、暫定的に今までに考えたことを並べるだけの記事を書くというのも自分に許していきたい。