何か物語を考えようか、物語が考えるとき。今、"物語を考える"を"物語が考える"って誤字をしたんだけれども、これは良い発想だ。
作者が物語をつくり、物語が何かをつくる。
物語がつくるのなら、それは作者の手を離れているし、作者には責任がない(?)。紐付いてはいるが。
最初に思うのが責任の放棄なんだな...。
ただ、最初に思い浮かぶだけ、私は物語を作ることへの責任を感じていて、それを苦しく思っている。責任、例えばどういうことにだろうか?
うまくピントがあった思考ができない。雑に思い浮かばれるのは、不幸、悲劇、不正の被害者を理由なく産み出してはならない。理由があったとして、産み出された景色や感情には意味があるといえるか。
あー、ここで"ピントが合う"がサイコロで6が出たらなにかおもいつけたんだろうなっていう感覚がある。ないときはそれで進むしかないが。
今責任についての文章を書いていて面白かった。現代じゃどのような物語も許されているが、内心の自由まで社会的に制限されていた時代じゃあこういった文章も当然であると言われただろうか。
教則本はたくさんあるだろう。しかし、○○について書いてはいけない、とか、○○を表さなければならないみたいに具体的でキャラクタリスティックな指導があったとしたら、それは面白い。そういうボードゲームがあってもいい。あるか。
有名な教則本について、展開を三つに分けて~とか、物語の分類だとか、そういう話をされるとどうしてこうも嫌な気持ちになるのか。自分が夢遊の空間にいる子供で、舞台の裏を見せられるような気にされるからか。
いずれにしてもそのような分類の話がされる空間で目指される物語を私は志向しない。
それはそうとして、物語を見る目的は先ほどの、夢遊の空間にいることのよう。見る、視覚を通してその空間に居るような状態になる。絵を見て文字を見て、人物像が作り上げられ、キャラ同士の関係や空気、感情が感じられる。書いているだけでなんて嬉しいことなんだと感心する。しかし私が想像する者たちは概して善なるもので、善であるかを悩む可愛い羊たちだ。その点、私は今私が生きる世界、悪がある、あるいはコンテクストを共有しないため悪の決断に思えることをしている者、ただ純粋に地肌で悪を行うものがいる、この世界を表そうなんて全く思っていない。この世界がどのようであるのか、どうすれば表せるのかなんて今の私は興味がない。すぐ思い浮かぶ良さ、その良さを表すことに執心している。
その良さってなんだ?
お腹が減って頭が回らなくなってきた。
腹部が減少すると、頭部の回転率が減少する。こういうことしか考えられない。